「徒然に」カテゴリーアーカイブ

人生を24時間で考える

どうも大妖精です。
今、志村けんの本を読んでいる。
気になってて買うか悩んだけど、一旦辞めておいたのだがやっぱり買った本。
思ったより普通。普通をちゃんと書いてる。
まだ未読なので読み切ったらまた書こうかなとは思っているんだけど、その中で気になったことがある。

人生を24時間で考える。
これって昔どこかで流行ったと思う。
でも当時はふうんという程度だけだったのだが今は妙に沁みる。

どうするかっていうと人生は72年くらいとして24時間で考えると1時間3年くらいとなる。
そしてその人の年齢を3で割ると時間が出る。
20歳の人だと6あまり2。なので6時40分くらいということね。
まだまだ夜明けだ。
40歳になると13時20分。お昼ご飯を食べて昼の活動が始まっている。
60歳になると20時。夕飯は終わったのかな。寝るまでのゆったりした時間かな。

中学生なんてまだ陽が上がってもいない。
高校卒業くらいで日の出くらいか。

今の自分がどの位置にいるか?
人生の目安として面白い。
そして自分が夕方前くらいにいることが分かる。

さて、新しいことをするには迷うくらいだ。
もう家路につくか?何かひと遊び。一仕事出来るだろうか?
晩御飯前の一頑張りといったところか。

もうすぐ陽も落ちようとしてるんだな。
ちょっと焦りを感じたとともにまだ間に合う気がした。
ぜひ皆さんも自分の位置を見て、午前中であればまだまだやれることは一敗あるから大いに失敗して大いにチャレンジしたらいい。
午後に差し掛かったら技術を磨いたり、目標にチャレンジしてもらいたいものだ。
まあ、どう生きようとその人の自由だけどね。

しおぶらり

こんにちは大妖精です。
さて今回もなごろむ50振り返りを。今回はトラックNo.10『しおぶらり』です。

しおぶらりってそもそもロケを音声だけで行うというトライアル企画なんですよね。
聞いた人が実際にそこへ行ってみたいと思えれば成功です。

音だけで風景を見せることが出来るか?
音だけで風景を感じることが出来るか?
それを目指して作られているんです。

しかし実際問題難しい。
紫音が案内するけど言葉も、表現も足りない。
まあ風景は目で楽しむものだし、空気は肌で感じるものだ。
それを耳だけでとなると難しい。
それを踏まえて何が出来るかを試行錯誤してきた。

結果!成長日記やん

いやいや違うな。
でもそれも頼める要素になるならそれでいいとは思っています。

今回は稲荷山を登りました。
私も同行したのですがとてもキツく、体力の低下を感じました。
このしんどさを伝えることも大変困難です。
表現・伝達などというものは人に何かを伝えるためにあるものだけども、その困難さを人は忘れてしまう。
しおぶらりはその難しさを毎回教えてくれる。

これからも頑張っていきたいですね

もしもの二人#願い事

こんにちは。
今回はトラックNo.12『もしもの二人#願い事』ですね。

これはシリーズものですね。
もう何話目になるんだろう?数えたこともないけどもそこそこになるんじゃないかしら。

もしも願い事が叶うとしたら何を願うということですね。
何願います?

今回はコロナ禍ということも作品の中に反映されています。
この中で願い事っていうと日常を願うこともありですよね。

実際に自分が願い事をするならばということで考えるといろんなことを考えます。
あれが欲しい、これが欲しいと。
でもそれは何か特別な力を使わないと叶わない願いなのでしょうか?

最近では書きたいことを書けない作品にはなってきました。
このキャラクターならこう言うだろうだろうなって勝手に話が進む。
書きたい内容からドンドン脱線していってしまう。
まったく困ったもんです。

願い事は願うものではなく叶えるもの。
楽にどうこうなるものではない。
一歩一歩努力するしかないんじゃないかな。
それが一番伝えたかったことなんだけどねえ。
脱線した。

立ち上がれ!ウレテルマン!

どうもこんにちは。
今回は15トラック『立ち上がれ!ウレテルマン!』です。

これはちょっと真面目な作品が多くなったのでふざけてみたいなーというのが先にあります。
で、怪獣とか怪人とかってなると引き出しがウルトラマンや仮面ライダーになってしまう。
というかあそこにだいたいのことやりつくされているようにも思う。
あのシリーズの枠を超えて何かを作り出すことって出来るのか?
なんか呪縛みたいなものもあるし。
すごいなー

なので特に作品を越えていこうなんて大それたことは一切考えず、私ならこう書くよなーっていうところをベースに書いたものになります。

ウルトラマン派、仮面ライダー派、戦隊派とかって話を良くしてきたけども私はウルトラマンかな。
リアルタイムは空白の年代だと思うんだけど…(80とかは違うって思ってる)再放送がスゴくて。大体のものをリアルタイムだと思ってた。

あれが再放送って気付くのもだいぶ遅かった。
そもそも中の人とかにも興味なく、本当に純粋に作品に没頭してみてたから仮面ライダーブラックだったかな?石ノ森章太郎が久しぶりにライダーをとか言われてもえ?今までも普通に原作してるよな?なんて思ってた。
大人の事情には興味なかったのさ。

で、私はウルトラマン派なんだと思う。
ウルトラマンはウルトラQとかからでも怪獣=悪とは描いていない。むしろどこかにそういう生き物がいるかもしれないと思わせてくれたり、何かをしたから何かをされるという描き方をしている。道徳的、オカルト的なお話。
しかし仮面ライダーや戦隊は悪の組織がまずあって、それと戦うお話になる。爽快感とかカッコよさがあるね。
だからそもそも比べることがナンセンスなんだと思ってる。

しかし子どもたちには悪と戦うという構図がわかりやすかったんだろうな。ウルトラマンが世間から人気を落としていくのは悲しかったし、今も悪との構図が出来てしまっててそれもまた悲しく思うし、それで巻き返せてるか微妙なところも悩ましい。

あ、作品の話でした。
そうそうなのでやっぱりパロディーみたいになってしまうし、みんなパロディーなんだろうなって思いながらやってたのでパロディーでいいかってなりました。
でも本当はそうじゃなかった部分もあるんだ。
なのでパロディーだったらもっと振り切ったのになって思う。

楽しくは仕上がったとは思いますのでぜひ聞いてみてください。

夜のタブー

どうもこんにちは。
今回はトラック13の夜のタブーについて話せるところまで話したいなと思います。

そもそもこのお話はタブーという言葉から?
いや違うな。
なんていうかな入ってはいけない領域ってあるよねっていう着想からですね。

なんでもかんでも明らかにしようとする人がいるわけです。
知らなくてもいいじゃない。知ってどうするの?あなたには関係ないじゃない。あなたさほど興味もないじゃないとかいろいろ。

なんかすぐに首ツッコんでくる人が多くて、鬱陶しいなというか。
で、ある程度聞いたら興味なさげに去っていくと。
なんなんだ?となる。

そうそう、どこぞの心霊スポットが荒らされてたりするニュースをみて罰が当たればいいのにって思ってみたりして。
でも罰って最近当たったとか聞かないなって。
そうなると昔はよく罰当たった話聞いたのになあ。
なに?神さまサボってるの?とか考えてみたりする。
これを科学的?にいうと結局人災だったとなる。
なにそれ?逆に怖いじゃん。

私はそれでも人が触れてはいけない領域っていうか神秘的というか禁忌ってのはあると思ってて、そういうものに畏れを抱かなくなった現代には少し残念な思いしかない。
なんていうか薄っぺらいのよ。なんでもかんでも理屈で解決しようとする世界って。
わかんないものっていう存在があるって面白いけどなあ。

今回のお話は触れてはいけないものに触れた人のお話。
それはこちらが故意だろうがなかろうが関係なくやってくるもので赦しを得ないと永遠に繰り返されるのだろう。

人間の常識が及ばないものであると思うんだ。
だいぶ抑えたけどね。
怖がらせたいわけじゃないから。

ぜひ楽しんで聞いてみてください。

サルノテ

どうもこんにちは。
なごろむ50の振り返りをしていきますかね。
今回のCDはもう聞いてもらいましたか?
お話について話すのって照れくささとかいろいろとあるので苦手なんですよね。
話すことによって見方、聞き方が変わってしまうのはどうかなって思うので。
なのでふんわりと振り返っていこうかな。

「サルノテ」
猿の手ってお話知ってます?
いろんな願い事を叶えてくれるお話やアイテムやロボットがいますけどもその中でもしっかりと代償を取っていくタイプのアイテム。それが「猿の手」です。

このお話は1902年に出来たっていうんです。
スゴイ秀逸。
しかもホラー作品としてではなく、普通に短編小説として。
面白いですねえ。
で、このお話が秀逸だからいろんなところで使われたりしています。

今回はそんな猿の手を手に入れたらどうする?って話です。
話自体は原作ありきなところですけども、実際願い事と同規模の代償を支払って願いを叶えてくれるアイテムがあったら使いますか?

私は絶対に使わないかな。
そもそもお金が欲しいとか、物欲は今はほとんどなく、願い事の類も自分では叶えられない何か超越したものになる可能性が高い。
例えば身体の疲労や故障や病気をすべて取り除いて欲しいとか。
これを叶えるためにどれくらいの代償を支払わないといけないのか?って話ですよね。

怖くて願えません。
アイスで当たりが欲しいとかだったらどれくらいの代償になるんだろ?
難しいですよね。

ちは。

なごろむ50の振り返りをしていきますかね。今回のCDはもう聞いてもらいましたか?お話について話すのって照れくささとかいろいろとあるので苦手なんですよね。話すことによって見方、聞き方が変わってしまうのはどうかなって思うので。なのでふんわりと振り返っていこうかな。
「サルノテ」猿の手ってお話知ってます?いろんな願い事を叶えてくれるお話やアイテムやロボットがいますけどもその中でもしっかりと代償を取っていくタイプのアイテム。それが「猿の手」です。
このお話は1902年に出来たっていうんです。スゴイ秀逸。しかもホラー作品としてではなく、普通に短編小説として。面白いですねえ。で、このお話が秀逸だからいろんなところで使われたりしています。
今回はそんな猿の手を手に入れたらどうする?って話です。話自体は原作ありきなところですけども、実際願い事と同規模の代償を支払って願いを叶えてくれるアイテムがあったら使いますか?
私は絶対に使わないかな。そもそもお金が欲しいとか、物欲は今はほとんどなく、願い事の類も自分では叶えられない何か超越したものになる可能性が高い。例えば身体の疲労や故障や病気をすべて取り除いて欲しいとか。これを叶えるためにどれくらいの代償を支払わないといけないのか?って話ですよね。
怖くて願えません。アイスで当たりが欲しいとかだったらどれくらいの代償になるんだろ?難しいですよね。


被害にあっても叶えたい願いってもう誰かの為にですよね。それなら願う時あるかも知れない。

『願い』というもの

今回のなごろむのテーマは『願い』でした。
前回のなごろむが終わり、コロナが猛威を振るい、出てきた言葉は『願い』

しかし、『願い』って…難しい。

今回のお芝居は『星に願いを』というお話。
あらすじとしては主人公ヤンスミが星に願いをかけるところから物語がはじまります。
願い事をした帰り道に世界を旅するトモコと出会います。
ヤンスミはこれは星の導きということでトモコを家に招き入れます。

しかしトモコはヤンスミとの共同生活から逃げ出してしまう。
そんな時に願い星からヒカリがやってきて願い事を叶えるというがそれは相当な努力が必要なものだった。

果たしてヤンスミは願い事を叶えることが出来るのか?

* * * * * * *

ということでこうやってあらすじを起こすというのは難しいねえ。
どこまで書いていいものか?ここに尽きるわけですけどね。
だからこの辺くらいかな?どう?見た人

さて今回のお芝居は結構欲張ってしまったなあと。
本当に核になる部分よりも他のところに比重がかかってしまったように思う。

イベント中にも話したんだけど世の中のことについて白黒つけたい年頃もあったけど年を重ねるにつれ世の中はそういうもんじゃないなって思えるようになってきたのさ。
むしろグレー

まずは友だちというものについて。
友だちって難しいよねって話なんだけど、どうなったら友だちなんだろう?ってね。
この友だちの境界線ってのを昔から考えてきたわけですよ。
みんな考えないのかな?
自分は友だちだと思ってても相手はそうは思っていない。
そんな体験したことない?
でも友だちだよね?って聞く間抜けさというか、わざわざ聞くもんじゃなあないなって思うの。
例え聞いたとして、友だちだと言われても納得できるものかしら?
そうなると友だちであることっていうのはお互いの同意で生まれるものじゃないんじゃないかって思うのね。

願い事。
願い事って空を飛びたいとか超能力や魔法ってことを除くと努力でなんとか出来ることなんだと思ってる。
叶わないのは努力が足りないと。
そういう世代でもあるのでね。
その考え方として原因と結果。
望む結果に至るまでの原因を作らないと。
例えば好きな芸能人に出会いたいなら番組を作ってオファーすれば来るんじゃないかな?
その資金が作れるかどうかでしょう。

思ってる女の子に近付きたい。
好きだということも大事かも知れないけども相手が好きなことや喜ぶこと、一緒に居たいと思ってもらえる努力をしているかどうかになってくるんじゃないのかしらと。
ま、やり方は相手によっても変わるだろうし難しいね。

そして信じること
言われたことをただただ信じる、それは盲信
言われたことを狂ったように信じること、それは狂信
ちゃんと考えないといけない。
人に丸投げになってしまうのは信じるではなく責任を押し付けただけ。
あくまでも責任は自分にある。それが信じるというラインではないかと考える。

ちゃんと生きるというのは大変難しい。
そういったことを丸めてクシャクシャにして雑に放り投げた感じなのが今回のお芝居かなと思います。

もっと丁寧に作ったら倍の時間は必要になってくるとは思うし、練習やらでの時間もかかるので、現状ツライところね。
作ってみたい気持ちはあるんだけどね。

でも『何か』、本当に『何か』でいいんだけど、口で表現するのが難しい『何か』が少しでも届けられたら良かった。
アンケートやお話を聞いた限りでは喜んでもらえたようで何よりです。次回も頑張ろう。

今週はなごろむ関連のことを書ければいいな。

だいたい満たされました

どうもです。
書きたい欲求が出てきたので書き始めたブログではあるけども、もう満たされてきました。

そういえば昨日はイベントでしたね。
もう50回もやってる。
「継続は力なり」なんていうけども、継続していくことで力がつくということなのか、継続することには力が必要ということなのか?よくわからない。

でも続けてきたことで学んだのは力の抜き方かな。
良いのか悪いのか、全力ではないと怒られるのかわからないけども適度に手を抜きながらやってる。
そうじゃないと続かないよなんて自分に優しくしてる。
もう少し厳しくてもいいんじゃないかって思うんだけど、それだと何か他のことを諦めないといけないから。

難しい選択だ
何かをすれば、何かが出来ない。
良くあることではある。でもまあそんなの言い訳だと思ってるんだけどね。
やる人はやってるし、どちらもやるならそれなりに努力が必要になる。それをやらずに出来ないというのはちょっと違う。
なので出来ないのは怠慢である。と思ってる。

なので怠慢でギリギリ両立できるところで動いてる。
ベストを尽くせよ!ってなるんだけど申し訳ないってことになる。
でも怠慢だけならまだ良かったのかも知れない。
今は老化がやってきた。やりたくても出来ないってのが本当にやってきてしまった。
やれる時にやっておかないと本当にダメだね。

今回なごろむ50を作るに当たってどう考えて作ってきたのかを考えたいと思う。
まあ飽きてなければ。

ゲームについて。2020年6月

テレビゲーム(なんか懐かしい響き)が小学生から、いやゲームウォッチなどからからかな、電子ゲームというものは幼少から楽しんできたかと思う。

昔のゲームはパターンが決まっていてあとはそれのスピードがひたすら上がっていくようなものが多かったから途中で飽きちゃうのね。まあそれなりにやったけども。

RPGはその中でも新しい世界を 感じさせてくれた。
当時アドベンチャーブック(ゲームブックというのね)が流行ってきた時でもあったかと思う。
もういろんな本を読み漁り、小学高学年の図工で作ったのはドラゴンを彫ったオルゴールだった。
当時は龍とドラゴンの違いについてやたらとこだわっていたように思う。怪談にハマったり、日本の妖怪や鬼伝説とかを調べていたような…こっくりさんとかも。

ファミコンは発売当時は金持ちの象徴でした。
うちは貧乏だったので当然なく、持っているかどうかが子どもながらに貧乏チーム、金持ちチームの目安として考えていました。
そんな貧乏チーム代表の私のところにもファミコンが来たのです。
クラスの中でも数えるくらいしか持っていない人はいなかったんじゃないか?というほど皆持ってた。

というのも社会現象になったからね。
なんだかわからないがテレビゲームの「はみこん」というのが今すごい売れてて入手困難であると。
でもこのファミコンは当時私の小学校の近辺で作らていたのもあり、また増産がおっつかず内職で友人の親が作ってるという噂が流れてたくらいだ。なので「欲しかったら言うたるで」とうちの親のところまで話が来たらしい。
手に入らないものが手に入るならということで貧乏チームにも光明が差したわけです。でもソフトは選べず麻雀とマリオブラザーズがやってきました。マリオは当たりね。一番話題のソフトだったから。でもあれって3ステージをグルグルと回るだけ、回るたびに尋常じゃないスピードにアップするのでまあ限界があるよね。
そんな中うちの母親が朝までやっていたことがあって驚いた。
意地になったといってたが朝起きてすごいスピードのハエと戦っている母を見た時の衝撃は今も忘れられない。

ファミコン、スーパーファミコン、PCエンジン、プレステ2、64、セガサターン、ドリキャス、WiiU、プレステ3とやってきたけども今はゲームがなかなか続かない。

なんかすぐに飽きちゃう。
年かな?面白くないんだ。
RPGとかは顕著で、冒頭でお腹いっぱいになっちゃう。

そんな中で思うのはやっぱり人とやりたいな。
人とやるゲームが一番楽しい。
そうそれが言いたかっただけなのにダラダラ書いちゃった。
なのでゲームしようぜ!ということです。

ボクと麻雀(ゲームについて2020、6月)

本当に子どもの頃からゲームって結構身近にあったと思う。

子どものころは正月に親戚が集まって花札や麻雀をやるのを見てて、それがなんかキラキラ楽しそうで、もうお祭りだったわけよ。みんな大声で笑い合ってふざけ合って楽しくて寝たくない!って。まあ寝させられますけどね。いつか御開きまで起きていたいって思ったよ。
寝てる部屋の隣でいつまでもジャラジャラ、ジャラジャラしてるのを聞いてるうちに眠りに落ちていく…

小学校低学年くらいの子どもが麻雀牌を持ってやりたいって言ってもさ、「お前にはまだ早い」って言われるのはまあ当然。
それでも触りたくて無理やり触るとガチで怒られるわけ。
それは倫理的にとかではなく、本当に邪魔!ってテンションで。
そこは完全に親とかじゃなくて、大人が真剣に戦い合ってる場なんだなって。で、それに猛烈に憧れたのよ。

小学生の時にはファミコンが流行ってそこで麻雀をやりまくった。
ソフトがそんなにないから麻雀をやりまくった。
ルールもそこで覚えていった。

祖母は麻雀は苦手だったのさ。
でも面子が足りないと座らされる。
なので孫たちの面倒は祖母が良く見てくれた。
祖母におねだりするのは花札とカブ。
小学校に上がる前から任天堂の上客だったのね。我が家は。
花札、カブ札何セットかあったし。
カブは展開が早いので子どもでも出来る。
思えば暗算が早くなったのはそのせいではなかろうか?
でも私自身は麻雀に混ざりたくて仕方なかった。

小学校高学年になる時には麻雀のルールの基本は覚えていると思ってた。先生はファミコンだけど。しかも二人打ち。
もういつでも入れるよと密かに思って出番を待ってた。ファミコンなのに。
中学生になる直前の春に曾祖母が亡くなった。
それから親族が集まることが減っていった。

中学生になってもなかなか麻雀に参加することは出来なかった。
もうルールもわかるのに。ファミコンの四人打ちもやってたし。
何度か祖母がじゃあ代わりにやってみてと言われてやったことがある。結果は覚えていないがボロ負けまではいかなかったと思うが勝てなかったかと。自分なりには頑張ったと思ったんだけど、叔父たちにはまだまだやなと言われ、また当分仲間に入れてもらえない期間が増える。
どうやら麻雀に参加するためには必要な資格は年齢やルールを覚えることだけでないことに気付くのはもっと後になってからだった。

中学生から友人と麻雀を囲みだした。
高校生活は麻雀のことしか覚えていない。
正月に親戚が集まることはもうほとんどなかった。
叔母が叔母の友人を連れてくらいになった。
私はもう親戚をあてにすることなく麻雀が出来る環境を持っていた。

私は今でもあの子どもの時に見たお祭りに憧れ続けている。
家族が楽しそうに笑い合っている空間に。

今思うと、ゲーム倶楽部なんかはそういう場所に近付こうとしているのかもしれない。
対人であることにはこだわり続けているので。
技術を磨いて、全力でぶつかり合える場所をって。

なんかゲームのこと書こうと思ったのに思い出話だけで終わってしまった。
次回はテレビゲームのこと書きます。